徳島城の庭園

1月4日に徳島城の庭園を視察しました。

徳島城は天正13年(1585年)の蜂須賀家政により築城。明治2年(1869年)に廃城となり、天守閣や本丸が壊され、石垣と、この表御殿庭園のみが残されています。この庭園を造ったのは茶人として有名な上田宗箇と現地で知りました。

ウイキペディアで調べてみると。

上田重安(しげやす)は安土桃山時代の武将、大名。茶人であり、作庭家。出家して上田宗箇と名乗る。のちに浅野家に仕え家老となる。広島城の泉邸(縮景園)を作庭する。

 

城跡が徳島中央公園となっています。この一角、案内板では右下の部分に表御殿庭園が位置します。御殿の書院と藩主が暮らす中奥に面して築かれています。

ここからは、ボランティア団体の方が説明してくれました。

大名家で一番心配なことは、お家断絶だそうです。つまり家を継ぐ男の子が生まれなければならないのです。

それを願って陰陽石を置いたと言われます。奥の立石が陽石、手前が陰石にあたります。それでは中ほどの石は?と聞いたのですが、分からないそうです。私見ですが、子供を意味していると考えられます。

ボランティアの方が、「穴の中に耳を当ててください」というので、そうしてみると、風が洞内で回っている「ゴー」という音が聞

こえます。説明書をみると、地獄の釜がたぎる音だそうです。実に面白い現象。

 

庭園には阿波特産の青石が数多く使われています。中でも日本一の長さを誇ると言われる石橋は、驚かされました。

 

面白いのが、東北鬼門への備えと聞きます。ここには隅櫓という建物があったそうで、そこは城内の囚人が収容されていたとのこと。つまり、鬼門の方位には好ましくないものを置いていたというわけです。隅とは角のことです。

 

ここが隅櫓があった区画です。

 

果たしてその先は角で、堀に囲まれていました。数寄屋橋のところにあった櫓から監視されていたことでしょうし、これでは逃亡できないと思います。

 

方位を測ってみたら、確かに艮の方位にありました。

 

この門は鬼門にあたります。ここから出るのは、城内からでた死者か、囚人であったといわれます。その先にかかる橋は数寄屋橋。東京に地名がありますが、武士と町人を分ける境界となっているとのこと。(ウイキペディア)

 

鬼門除けとして柊を植えているのを見ることができました。柊鰯と言って、焼いた鰯の頭を柊の枝に刺すという風習がありますが、魔除けの意味があります。

 

また、パワースポットの場所を教えて頂きました。それは園内の大樹でした。説明がなければ、分からなかったことばかりで、当日はとても勉強になりました。

上田宗箇という方は茶人と思い込んでいました。作庭家でもあったとは無知でした。広島の縮景園もそれなりに意味を持たせた配置となっているのでしょうが、凡人の頭ではすぐに分からないところです。研究の余地があることを思い知らされました。

 

 

 

 

 


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